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長襦袢、あるいは見えてしまう一枚

洋服にはない感覚が、ある告示で削られた日のこと

洋服に、長襦袢にあたるものはない。下着は隠され、上着は見せられる。その二層で済んでいる。

着物には、その間にもう一枚ある。袖口から一分、裾から一瞬、襟元から立ち上がる半襟。誰かに見せるためではなく、見えてしまうときのためにある一枚。自分が知っているために、絵が描かれていた。

一九四〇年七月七日、その一枚に告示が下りた。

三井呉服店『夏衣』明治三十二年、長襦袢の頁
三井呉服店『夏衣』明治三十二年、長襦袢の頁

明治三十二年、三井呉服店が一冊の販売案内を出している。『夏衣』。

長襦袢の頁を開くと、商品名がない。代わりに詞書が置かれている。花車。富貴草。胡蝶。八重桜。値段は端に小さく添えられているだけで、本文は短い詩のような調子で書かれている。

そのうちの一行に、こうある。

八重櫻あやなく雪と散る夜半に月さえ清く染め渡る

夜半の月を染めている。表着ではなく、見えないはずの長襦袢に。

呉服店は、見えてしまうかもしれない一枚に、夜の景を売っていた。「何れも清粋の摸樣なり」と、頁の末尾に書き添えられている。

『問答式解説 七・七奢侈品禁止令』昭和十五年、告示本文の頁
『問答式解説 七・七奢侈品禁止令』昭和十五年、告示本文の頁

四十一年後。商工省告示第三百三十九號。

染繪羽模樣裲襠地及びその製品、同着尺地及びその製品(裾模樣のものにして裾よりの高さ鯨尺二尺未滿または袖裾よりの高さ鯨尺一尺三寸未滿の模樣を附したるものを除く)同羽織地及びその製品同襦袢地及びその製品同夜具表地及びその製品

製造禁止物品の列のなかで、長襦袢は四番目に置かれている。「同」の一字に括られて。

一八九九年に、花車、胡蝶、八重桜と一つひとつ名前を呼ばれていたものが、ここでは「同」になった。

施行日が七月七日に置かれた理由について、解説書はこう書いている。「特に支那事變記念日を選んだものと推測される」。盧溝橋から三年。

告示には、ただし書きがある。裾よりの高さ鯨尺二尺未満、または袖裾より一尺三寸未満の模様であれば除外する。

鯨尺は、和裁の現場でしか使われない物差しだ。仕立屋の作業台で、卸の帳場で、職人がこの目盛りで布を測る。

その目盛りで、国家が線を引いた。

ここまでは贅沢ではない。ここから先は贅沢である。鯨尺二尺。約七十六センチ。

告示には例外条項がある。主務大臣または地方長官が、許可申請に対して例外的に許可しうる対象として、八項目が列挙されている。

(イ)輸出せらるゝもの (ロ)技術の保存を必要とするもの (ハ)外國大使館用品 (ニ)神社佛閣等公式儀式に使用する物品 (ホ)外國航路の船舶用品 (ヘ)學術試驗研究用品 (ト)能歌舞伎、舞等の衣裳 (チ)軍需並に新聞通信社(寫眞機)用品

能・歌舞伎・舞の衣裳は、輸出品と並び、外國大使館用品と並び、神社佛閣の儀式と並んでいる。

日常の長襦袢から染絵羽は消え、申請を経たもののみが、舞台のためだけに残された。今、絵羽の長襦袢を目にする場所が古典芸能の世界に偏っているとすれば、起点の一つはここにある。

原典

染繪羽模樣裲襠地及びその製品、同着尺地及びその製品(裾模樣のものにして裾よりの高さ鯨尺二尺未滿または袖裾よりの高さ鯨尺一尺三寸未滿の模樣を附したるものを除く)同羽織地及びその製品同襦袢地及びその製品同夜具表地及びその製品

— 商工省告示第三百三十九號,昭和十五年七月七日施行 / 収録:商工経営研究会編『問答式解説 七・七奢侈品禁止令』昭和十五年

告示番号

商工省告示第三百三十九號

施行日

昭和十五年七月七日

境界線

裾より鯨尺二尺、袖裾より一尺三寸未満は除外

許可対象

能・歌舞伎・舞の衣裳ほか八項目

失われたもの

見せるためではなく、見えてしまうときのためにある一枚――という感覚そのもの。

名前を与えられた長襦袢が、「同」の一字に括られた日。

その一字を、誰も覚えていないこと。

用語

長襦袢ながじゅばん / nagajuban

着物の下に着る一枚。袖口・裾・襟元から見えることを前提に作られる。

絵羽えば / eba

縫い目をまたいで一枚の絵になるように染めた模様付け。

鯨尺くじらじゃく / kujira-jaku

和裁で使う物差し。一尺=約三七・八八センチ。

奢侈品等製造販賣制限規則Shashihin-tō Seizō Hanbai Seigen Kisoku

昭和十五年七月施行の戦時統制規則。通称「七・七禁令」。

裲襠うちかけ / uchikake

打掛。告示で長襦袢と並んで禁止された一品目。

戦後、長襦袢は復活した。が、絵羽の長襦袢が日常の流通に戻ることはなかった。今、呉服店の棚にあるのは、白か、淡色の小紋か、無地である。

洋服にはない一枚、見えないはずの場所に絵を持つという感覚は、告示で禁じられたまま、解除を忘れられたように薄くなっていった。