麻のなかで眠った夏
蚊帳、そして同じ繊維のこと
寝室の天井には、四つの鐶(かん)が打ち込まれていた。金属の小さな輪。夏になると、母か祖母がそこへ麻紐を通し、淡い萌黄の壁を四方に立てる。麻の匂いが部屋にひろがる。子どもが寝間着のまま、内側へ転がり込む。蚊帳のなか。
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-565 />蚊帳は麻だった。近江、とくに八幡の周辺で多く織られた。萌黄(もえぎ)に染めた一面の壁。夕暮れに沈んでいく畳の部屋のなかで、それだけが植物の色をしていた。四隅の吊り手から下がる房は、決まって赤い。
夕方になると、家のなかが二つに分かれる。蚊帳の内と、外。その違いを、子どもはすぐに身につけた。
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/K-25994 />鐶に掛けるのは、赤い紐だった。一方の輪を天井の鐶へ通し、もう一方の輪に蚊帳の隅を結ぶ。それだけで部屋に壁が立つ。紐は、決まって赤かった。なぜ赤か、はっきりしたことを聞かなかった。
夏が終わると、紐ごと蚊帳をたたみ、簞笥の奥にしまった。次の梨雨が来るまで、紐を家のなかで見ることはない。鐶だけが、天井に残っていた。
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/I-3467 />同じ麻が、身につけるものにもなる。上布(じょうふ)。越後、近江、宮古、八重山。透けるほど薄く、糊で張りを持たせた布を仕立てれば、帷子(かたびら)になる。素肌にじかにまとう。寝間着もまた、麻の浴衣であることが多かった。
夏の夜、寝床のまわりに麻があり、肌の上にも麻があった。同じ植物が、布として二度、家のなかに来ていた。
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-801 />蚊帳の外にも、夏の習いがあった。土間で焚く蚊遣火(かやりび)。よもぎや杉の青葉をいぶし、煙を家のなかに這わせる。庭先に盥(たらい)を出し、子どもや女が湯を浴びる。行水(ぎょうずい)。日が落ちかけて、まだ少し明るいうちに済ませる。
夕飯のあとの家の匂いが、そのまま夜の匂いになる。麻と、煙と、水。
原典
蚊のいと細声に名のりて、顔のほどに飛びありく、羽風さへ、その身のほどにあるこそ、いとにくけれ。
— 枕草子,清少納言,平安時代・11世紀初頭
蚊帳の主産地
近江の八幡 (現・滘賀県近江八幡市)
上布の四大産地
越後・近江・宮古・八重山
帷子の語源
「片柚(かたびら)」—裏のない一枚仕立ての意。
蚊遣火の材
よもぎ、杉の青葉、榕(かや)の削片。
失われたもの
麻のなかで眠った体の感覚。畳と紙と麻でできた家のなかで、夏は植物の匂いに満ちていた。天井で一年中、夏を待っていた鐶。秋に蚊帳をたたみ、簞笥の奥にしまうときの、決まった畳み方。子どもが内側へ駆け込む一瞬。
いま、鐶のある天井を、ほとんど見ない。









