PAGE
TOP

『銘仙夢織』最終章

最終章 画家・篤子の記憶

最初に目に入ったのは、濃い青だった。 

紫にも見えるその布を、篤子の目は「青」として受け止めた。

藍と墨を滲ませたような深い青。 

キャンバスの上ではなく、銘仙の布地に浮かんだ、抽象画のような模様。

「ずっと見ていられる」

そう呟いたのは、 昭和の終わりから平成をまたいで活動していた画家、篤子(あつこ)。

彼女のアトリエの壁には大きなキャンバスがいくつも立てかけられ、床には絵の具のしみ。 その一角に、銘仙がかけられたトルソーが置かれている。

 

若い頃、広告会社でグラフィックデザイナーとして働いていた彼女は、男性中心の職場で“女らしさ”ばかりを期待されることに違和感を抱いていた。 

平日は肩パッド入りのスーツで働き、週末になると銘仙を羽織ってアトリエにこもった。

銘仙は、古着屋で偶然手に入れたものだった。 

どこか懐かしく、それでいて見たことのない柄だった。 初めて袖を通したとき、着物が語りかけてくるような感覚があった。

模様の揺らぎが、自分の内側にある“色”を感じさせた。

そして、その感覚が、彼女の中に眠っていた“創る衝動”に火を点けた。

やがて、篤子は会社を辞め、独立して画家として生きることを決めた。

 将来の保証もなかったが、不思議と恐れはなかった。

「この銘仙があれば、自分の輪郭を見失わずにいられる」 それが彼女の確信だった。

十年後、彼女は初めての個展を開いた。 そのメイン作品は「青の余白」と題された連作。

そこには銘仙の色と模様が、あたかも再構成されたかのように滲んでいた。

篤子は、個展の最終日、ひとりで銘仙を丁寧に畳んだ。 

「私は、もう、この着物に頼らなくても描ける」

そう感じて彼女は銘仙を箱に入れた。 

その手つきは、愛おしさを手放すための儀式のようだった。

「ありがとう。あなたが、私の輪郭を描いてくれた」

春の風がアトリエの窓を揺らし、 銘仙の袖が、ほんの一瞬だけ、空に向かってそよいだ。

 

目を開けると、部屋の空気が少しだけ変わっていた。

光がカーテンのすき間から差し込み、銘仙の布に淡く触れていた。

その光の中に、描かれなかった“次の色”が、ふわりと滲んでいる気がした。

誰かの人生が、私の中を通り抜けていく。

強さという言葉だけでは足りない、静かな決意の気配が、まだ胸に残っていた。

けれど私は、その強さの正体がなんなのか、まだ言葉にできないままだった。

仕事をこなすだけの毎日。 誰かの期待を裏切らないように、流されるように動いてきた。 気づけば、自分の“輪郭”がどこかあいまいになっていた。

──もし、私が何かを描くとしたら。

それは、どんな色になるのだろう。

答えはまだ見えない。 でも、問いを持ったことが、なにより大きな一歩だった。

銘仙に触れる手のひらが、かすかに熱を帯びていた。

知らない誰かのものだったはずなのに、

その温度は、もうどこかで“私のもの”になりかけている。

私は一枚の白い紙を取り出し、その余白を、ただ見つめていた。

何かが、始まりそうな予感だけを抱いて。

エピローグ

静かな朝だった。 カーテンの隙間からこぼれる光が、絹地に淡く反射している。

その模様は、昨日までとは少し違って見えた。

私が見ていたのは、過去の記憶ではなく、 私のまなざしの中にある”今”だった。

私は、衣紋掛けから銘仙を外し、初めて袖を通した。

胸の前で合わせる布の重なり、背筋にそっと沿ってくる感触。 やわらかく肌に触れるそのぬくもりに、私は小さく息をのんだ。

鏡の中の自分が、少しだけ見慣れない顔をしていた。 でも、それは誰かの顔ではなかった。 今までの誰の記憶でもない、私自身の表情だった。

この銘仙は、誰かの人生を渡ってきた。 でもいま、この瞬間は、私がこの模様を生きている。

「これは、私が選んだ色」

声に出したその言葉は、驚くほど自然だった。

きっと私は、まだ何者でもない。 でも、何者かになろうとしなくてもいい。

この銘仙のように、何層もの想いを重ねながら、 自分だけの模様を少しずつ織っていけばいいのだ。

そう思ったとき、 初めて、自分の輪郭がほんの少しだけ見えた気がした。

そして私は、静かに目を閉じた。

遠くから、まだ見ぬ景色がかすかに立ち上ってくる。 知らない街のにおい、誰かの笑い声、風に舞う色とりどりの布の揺らぎ。

それは“過去”ではなかった。 けれど、“いま”でもなかった。

たぶん、未来のどこかで待っている── まだ誰にも語られていない、私の夢の記憶。

私は、きっと、そこへ向かって歩き出す。

作・著:キモノプラス編集部