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麻のなかで眠った夏

蚊帳、そして同じ繊維のこと

寝室の天井には、四つの鐶(かん)が打ち込まれていた。金属の小さな輪。夏になると、母か祖母がそこへ麻紐を通し、淡い萌黄の壁を四方に立てる。麻の匂いが部屋にひろがる。子どもが寝間着のまま、内側へ転がり込む。蚊帳のなか。

『蚊帳の内外』 東京国立博物館蔵(A-10569-565)・江戸時代 18世紀 <a href=https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-565 />
『蚊帳の内外』 東京国立博物館蔵(A-10569-565)・江戸時代 18世紀 https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-565

蚊帳は麻だった。近江、とくに八幡の周辺で多く織られた。萌黄(もえぎ)に染めた一面の壁。夕暮れに沈んでいく畳の部屋のなかで、それだけが植物の色をしていた。四隅の吊り手から下がる房は、決まって赤い。
夕方になると、家のなかが二つに分かれる。蚊帳の内と、外。その違いを、子どもはすぐに身につけた。

『蚊帳のつり紐』 東京国立博物館蔵(K-25994)・明治時代 19世紀 <a href=https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/K-25994 />
『蚊帳のつり紐』 東京国立博物館蔵(K-25994)・明治時代 19世紀 https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/K-25994

鐶に掛けるのは、赤い紐だった。一方の輪を天井の鐶へ通し、もう一方の輪に蚊帳の隅を結ぶ。それだけで部屋に壁が立つ。紐は、決まって赤かった。なぜ赤か、はっきりしたことを聞かなかった。
夏が終わると、紐ごと蚊帳をたたみ、簞笥の奥にしまった。次の梨雨が来るまで、紐を家のなかで見ることはない。鐶だけが、天井に残っていた。

『越後上布』 東京国立博物館蔵(I-3467) <a href=https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/I-3467 />
『越後上布』 東京国立博物館蔵(I-3467) https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/I-3467

同じ麻が、身につけるものにもなる。上布(じょうふ)。越後、近江、宮古、八重山。透けるほど薄く、糊で張りを持たせた布を仕立てれば、帷子(かたびら)になる。素肌にじかにまとう。寝間着もまた、麻の浴衣であることが多かった。
夏の夜、寝床のまわりに麻があり、肌の上にも麻があった。同じ植物が、布として二度、家のなかに来ていた。

『四條河原夕凉躰』 東京国立博物館蔵(A-10569-801)・江戸時代 18世紀 <a href=https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-801 />
『四條河原夕凉躰』 東京国立博物館蔵(A-10569-801)・江戸時代 18世紀 https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-801

蚊帳の外にも、夏の習いがあった。土間で焚く蚊遣火(かやりび)。よもぎや杉の青葉をいぶし、煙を家のなかに這わせる。庭先に盥(たらい)を出し、子どもや女が湯を浴びる。行水(ぎょうずい)。日が落ちかけて、まだ少し明るいうちに済ませる。
夕飯のあとの家の匂いが、そのまま夜の匂いになる。麻と、煙と、水。

原典

蚊のいと細声に名のりて、顔のほどに飛びありく、羽風さへ、その身のほどにあるこそ、いとにくけれ。

— 枕草子,清少納言,平安時代・11世紀初頭

蚊帳の主産地

近江の八幡 (現・滘賀県近江八幡市)

上布の四大産地

越後・近江・宮古・八重山

帷子の語源

「片柚(かたびら)」—裏のない一枚仕立ての意。

蚊遣火の材

よもぎ、杉の青葉、榕(かや)の削片。

失われたもの

麻のなかで眠った体の感覚。畳と紙と麻でできた家のなかで、夏は植物の匂いに満ちていた。天井で一年中、夏を待っていた鐶。秋に蚊帳をたたみ、簞笥の奥にしまうときの、決まった畳み方。子どもが内側へ駆け込む一瞬。

いま、鐶のある天井を、ほとんど見ない。